蒼生 ゲーム開発開始! 生きること自体の問いに答える生き方。

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物事の本質はどこにあるか

 

物事の本質はどこにあるか

こんにちは、蒼生です。

クリエイターなら皆面白いものや価値のあるものを作りたいと思います。

そうでない立場の人も物事の本質について的確につかみたいと思うはず

でも本質って何?価値があるって何??

と皆が思うはず。抽象的な判断基準のせいでほとんどの場合それは判断できず、結局玉虫色の

「人それぞれだよね」

って結論に着地してしまいます。人それぞれだよね、って結局何も考えてないし何も決めてないじゃん、って話なのでもう少し突っ込んだ話をしてみます。

 

以前読んだ本にこんな冗談が載っていました。

今聖書を出版社に持って行ったら、間違いなく冗長で面白くないから全部書き直せ!と言われると。

ご存知の通り、聖書は世界で最も売れた本です。

多くの信者を抱える宗教の聖典なのだから当然だろう、と言われるかもしれません。でも聖書を教養として一度でも読んだことがある人ならわかるはず。

聖典と呼ばれる本の中にはやはり非常に優れた知恵が少なからず含まれていると。

実際聖書には否定できない英知が多く書かれています。

それ故に初期は弾圧されていたのに、後には多くの信者を抱える宗教に育っていったというのが正しい流れです。 

 

どうして先の冗談にも紹介される出版社はその聖書の価値に気付けなかったのか?

という話になりますが、その理由について書いていこう思います。

 

 1、そもそもちゃんと読んでない。 

これがかなりの比重を占めた原因ではないかと思います。

忙しいから作品にちゃんと向かい合う時間を節約しているのです

基本斜め読みでその時その時に目に入ってきた部分を読んでいくので、微に入り細に入りの部分は読み飛ばしていきます。だから結局繊細な英知に気づくことができない。というのが第一の理由です。

 

 

2、大事だと思う価値のベクトルが真逆

書き直せ!というからには聖書には価値がないと判断するなんらかの基準や価値観が必要になります。

この場合は聖書が目指すものと出版社が目指すものが真逆を向いているせいです。聖書が目指すのは悟りとか気づきとか、内的な価値です。売れるかどうかなんてこれっっっぽっちも考えていないでしょう。

対する出版社は売れるものこそ正義です。つまり買ってもらうためのアピールをどれだけやっているか?が作品の価値に直結します。

これがいわゆる「価値観が違う」とか「人それぞれだよね」って表現するような問題です。

この問題が起きた時は、すみやかに価値観の相違を認めて去るなり、話し合うなりするべきです。

でないと、石をパンに変えるとか水をワインに変えるとかいう部分をもっと派手にしろ、とか

ユダが裏切ったりペテロが否認する部分をもっと感傷的に、胸を抉るような表現にしろ、とか十字架上のイエスをもっと悲惨に同情を誘うようにしろとか言い出します。

聖書を一度でも読んだことがある人なら分かると思いますが、まさにゴミのアドアイスです。けれど面白さを勘違いして本質的価値を見誤っている人はこういう頓珍漢なアドバイスを本気でしてきます。あなたの目指すものがそれと違うなら決して受け入れてはいけません。

彼らは売れるかどうかが作品の価値だと思っているので、より感情を煽る方に偏ろうとします。人間の脳の扁桃体という部分を過剰に刺激するような表現を好みます。

それはより本能的で動物的な感情に仕向けるための、人工的テクニックです。

だからペテロについてのこの表現は絶対に許せないでしょう。

さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。

ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。

そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。

しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。

するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

マタイによる福音書 福音書のペテロ

もっと過剰にしろ!文章が単純すぎる!こんな作文では人の感情は「煽れない」。

偏桃体を刺激して動物的感情に仕向けることを「感動」だと勘違いしている人は間違いなくそうしたアドバイスをしてきます。(感動と感傷は金と真鍮くらい違います)

でもご存知の通り、聖書でこれ以上の表現は「決してあってはならない」のです。これほどの悲劇は逆に抑制的に表現しなければなりません。なぜなら、聖書が目指しているのは内的な気づきであり、読者の精神的成長なのです。

決してペテロかわいそうー(ノД`)・゜・。(他人事、エンタメ的同情)

とかなってはいけないのです。何故なら、ペテロは読者自身のIFの姿でもあるからです。

 

 

3、そもそも本質的価値に気づけない、理解できない段階

人には常に盲点があります。ストコーマともいうらしいのですが、

人が気付けるのはその人が大事だと思うことに限られてしまいます。つまり大事だと思ったことがないことには気づけないのです。

これはもう、残念ながら人生経験の差です。(※何年生きたかではありません。精神の成長は時間には拘束されないからです。子供でも優れた精神性を持つ人はいますし、何十年生きてもそうでもない人は沢山います)

例えば聖書にはくどいくらい「まいた種はかりとらねばならない」という言葉が出てきます。これは、そういう人生経験をしたことがない人が読んだ場合「ふーん」にしかなりません。これほどの英知であっても残念ながらそうなのです。(なんならくどいから先の出版社ならカットしろと言ってくるかもしれません)

けれどある程度人生の艱難辛苦を味わった人なら、これが大変な真理であることに気づきます。聖書にはわかりやすくするためのたとえ話がいっぱい出てきます。放蕩息子とかイチジクの話とか、これらはすべて「わかりやすくするためのたとえ話」なんですが、この話を本当に表面的にしか理解できない人が少なからずいます。

彼らは自分の人生と本気で向き合っていないので、

このたとえ話の中にある真理が何を指すのかわからないし気づけないのです。

だからより偏桃体を刺激する感傷的でより動物的感情に仕向けるものの方が人生を表していると勘違いしてしまうのです。

 

ですが、これは確かにそうです。

どれほどの聖人賢者天才も「こう行けば良いよ」と道の先を示すことはできても、その首に縄をかけて引っ張っていくことはできません。

歩くかどうか決めるのは自分自身だからです。

転んだことがない人に転んだときの痛みをわからせることはできません。

さらに転んだあとの痛みの先にある気づきを理解させることは至難の業です。(一般に聖典と呼ばれるものの中にある英知はこれを指している)

少なくとも転んだ経験がないと、その意味すら理解してもらえません。

だから、本質的価値に気づけない人が一定数いるのは仕方ないことなのです。

彼らは自分の人生の中で少なからず失敗して転ぶことを学ぶはずです。彼らは転ぶことがまず勉強で、転ぶことに価値がある段階なのです。

そうした後に、転んだ先を理解するステージに移れます

 

冗談ではありますが聖書を書き直せといった出版社はこの段階です。

本質的価値を理解するステージにない人がそう言ってしまうのです。でも実社会でもそういう変なアドバイスをする人はけっこういます。

この世の中、いろんな人がいますから。そういう大学教授も幼稚園児もいっしょくたになっているのがこの世界です。

 

 

◆転ばなくても転んだ先を理解し、気づく方法

ここまでくると結局

転ぶしかないんじゃ、もう転ぶしかないじゃん。失敗するしかないじゃん。もうなんもしたくない。

と自暴自棄的な発想に陥る人もいるかもしれません。

しかし、多くの成功者が証明しているように、転ばずに転んだ先の知恵を入手することは可能です。これは大変意味があることなのにびっくりするほど普通な話なのですが、

ずばり知識にふれること、学問なり読書がそれにあたります。

転ばなくても、先にその危険を察知して疑似体験する方法がこれといっても良いかもしれません。だから聖典はすべて文字に直されてきたのです。

人間がこれほどの文化文明を発展発達させてきたのは間違いなく文字のおかげです。

知識の蓄積を可能にし、一代で終わらず人類の財産としてきたからです。かつては石板、木簡竹簡。最近では写真や動画。ありとあらゆる知識の蓄積が、種としての人間を圧倒的有利な存在に育てあげてきました。

奴隷解放と学問について今読んでいる本にこんなことが紹介されています。

黒人奴隷として当たり前に白人に仕えていた著者が、女主人から文字を教えられます。女主人はそれを誇りとし、その夫もそれを喜んでくれるだろうと思って話したそうです。するとその夫はその事実に大変怒ったそうです。 

ご主人のヒューは妻の単純さに度肝をぬかれ、おそらく初めて”奴隷制度の真理”と、自分たちが奴隷を管理するのに必要なルールを説明した。彼は…妻に奴隷の教育を禁じ…それが危険で法律に反する行為だと説明した。彼自身の言葉を引用すると…

「くろんぼは甘くすればますますつけあがるものだ。奴隷は主人の望みを知り、それに従うことだけ知っていればいい。学問は最高の奴隷を台無しにしてしまう。あの黒んぼにーーわたしのことだがーー聖書の読み方を教えれば、奴をここに引き留めておけなくなり、奴隷の義務を果たさなくなるだろう。…奴に読み方を教えたら、今度は書き方を教えてくれといいだすだろう。それを覚えたら、ここから逃げ出すに決まっている」

これが御主人ヒューの真の奴隷訓練法の主旨だった。彼が奴隷と主人のあるべき必須条件を明確につかんでいるのは確かだった。

フレデリック・ダグラス「私の束縛と私の自由」

 日本には人種的奴隷制度がないので、私はこれを今世間でよく取沙汰される「ブラック企業」の文脈を思い出しながら読んでいました。

かつてカトリックが聖書を独占していたように、かつて黒人奴隷が教育を与えられなかったように、そして今もあらゆる国、文化において

人が人を支配するさいに用いられるのが知的格差です。

 

学問は最高の奴隷を台無しにしてしまう!

 

これはあらゆる分野に共通した法則です。

無知であることは奴隷化される危険をもつことに限りなく近い

知は力なり、は真理です。

大人が子供を支配できるのも(身体的格差を除けば)知的格差があるからで、ブラック企業において企業が良い大人を支配できるのも、相手が労働法制などに無知で支配しやすいからです。頭がいいと反抗してきます。なんなら知識という武器で逆に負傷させられます。(労働法制なんかまさにそれ。戦った方がいいよ)

知識は武器なので、支配する側はそれを絶対に相手に与えたくはないのです。

 

 

支配・被支配の関係のみならず、

知識はその人自身を助けます。

だから転ばずに転んだ先の英知に到達する手段として

多くの成功者は本を好むのだと思います。

(逆にそうした目的意識がない人だと勉強してるのにバカ、になります。勉強して教養を深めたはずなのに全然盲点が狭まらないのです。だからどうせ勉強するならちゃんと目的意識を持った方がいい)

 

つまり何周も回って、成功者たちが口をそろえて言う

本を読め

は真理です。

教養を深めることは盲点を減らす行為です。

あれも知ってる、これも知ってる。というのはあらゆる微細なことに反応できる素養を持つということです。

聖書に語られる真理が一見地味で「ふーん」で終わりそうなのに代表される通り

真理は本当に地味です。

目の覚めるような、スプラッターや華美さは一切ないのです。

だから教養を深めると石の中にまぎれたそれらに気づきやすくなります。

 

 

そしてもう一つの方法が

自分の中に問いを持つ

です。自分の子供の頃は常にこれでした。子供の頃の対大人との知的格差は圧倒的なのにすぐには埋められません。無駄でもなんでも、長く生きていると経験という知識をそれなりに集積していきますので、生まれて間もない子供にいきなりその時間的なハードルを越えることは不可能です。(法学の父といわれるグロティウスくらいの神童・天才ならともかく、普通は無理です)

 

前述したとおり、人には盲点があります。

盲点があると、仮に優れた英知が目の前にあってもそれに気づけません。

だから盲点を埋めるために本を読み、教養を深めるのですが、勉強にはそれなりの前提知識が必要になるので当時小学生の自分にはそれもハードルが高かった。そもそも読めない漢字だらけでしたから。

 

それでも私は支配されたくなかったので、教養がなくてもそれに匹敵するそれを超える方法に早い段階で気づきました。

それは自分の中に問いをもつということです。

 

自分の中に問いを持つという方法は前提知識すら必要としなくなります。

真理は前述したように地味です。そして実は日常にあふれています。気づけないだけなのです。

だから自分の中に問いを持てば、教養を深めるよりもコスパよく、低いハードルで

真理に到達できることに気づきました。

後に知ったことですが、これは古代の哲学者や僧侶がとっていた方法です。(ギリシャの哲学者や古代の僧侶は知識量ではハーバード大学生に負けるでしょう。でもそれ故に劣っていると思う人は一人もいないはずです)

彼らは問うことで情報に敏感になり、盲点を意図的に狭め、真理に到達することができたのです。

そしてこれは子供でもできることです。

知的、身体的に未熟であってもできる方法であることは、私が証明しています。

そして真理に気づくことは、知は力なり。の核心部分にいきなり到達することです。

 

求めよ、さらば与えられん

 

というのは聖書の言葉ですが、これは人の盲点を狭めるための具体的アドバイスの言葉とも捉えられます。

それから

自分の中に問いを持つと自然と視座が高くなります。

自分でも問いを持つ状態と持たない状態では雲泥の差があると実感しています。

視座が低い状態というのは一つ一つの問題や情報に拘泥しやすくなります。視座が低いと情報同士の関係性が見えないのでジョブズ風にいうと 

conecting dots(点と点を結ぶ)

ができない状態になっています。けれど視座をあげると見渡せるものが多くなるので自然と他の情報との関係性が見えてきて、点と点を結ぶことができます。

問いを持つというのは探し求めている状態です。

世界について情報を求めるよりも先に自分の中の情報を点検して使えるものはないか見るのは自然の成り行きです。

その探し求め、自分の中を見渡している状態がいわゆる「視座が高い」状態なのです。

conecting dots が起きるためには自分の中に情報を蓄えることも必要ですが、

それ以上に

視座が高い状態である必要があります

子供の頃、私の中には大して情報は蓄積されていませんでした。それでも自然とこの状態が起きていました。このことからもわかる通り

必要なのはいつも条件ではなく、やるかやらないかその意思だけです。

人間の脳は無いなら無いなりに、不便なら不便なりに最善の結果をだそうとなんとか頑張ってくれるものです。


 

物事の本質はどこにあるのか。本質的価値はどこにあるのか。

そう探す前に、あなたは目の前にある地味な真理に気づける状態にあるか?

自問してください。

 

表題の問いである

物事の本質はどこにあるか

の答えは、常に目の前にある。です。

あなたが気付き、受け取る準備さえすればいいのです。

それは転んで痛い目にあったとき、教養を深めたとき、自分の中に問いを持っているとき、自然と見えてきます。

そうすれば、

聖書を書き直せ!という架空の出版社のような愚を犯さずにすむかもしれません。 

 

 

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