蒼生 ゲーム開発開始! 生きること自体の問いに答える生き方。

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見る目のある人と無い人は何が違うのか

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見る目のある人と無い人は何が違うのか


同じものを見てもある人はその価値を気づき、ある人は素通りしてしまう。

見る目がある人は、一見して価値がないかに見えるものの中に潜むビジネスチャンスを見出し、それを拡大する。多くの人がその価値に気づいていなければいないほど、そこから得られる利益は莫大なものになる。逆に、多くの人がそれは良いというものからは、それなりの利益しか得られない。安全な方法ではあるが、先にそれで成功した人がいるから皆良いと言うのだ。したがって、斬新さはなく競合も多い。

だから、見る目の有無は成功を左右する上でとても大切な要素だといえる。

その上、見る目の有無の重要性はビジネスだけに限らない。

普通に生活していても、見る目がある人とない人の差は大きなものになる。見る目がある人はより多くのチャンスを得るだろうし、あるいは何も特別なことがなくても幸せを感じたりできるだろう。逆にない人はそれを素通りしたり、挙句の果てには価値がないと見切りをつけて手放してしまうかもしれない。

どうしてこんなことが起こるのか。

見る目の有無とはそもそも何に起因したものなのか。

それは「問いの有無」だと言える。

人は何か問いを持っているとそれに答えようとする。すぐに答えられないようなものであれば、ずっとそれに当てはまるようなものを探し続ける。

つまり、アンテナが立っている状態なのだ。

エジソンは電球のフィラメントにふさわしい素材を探して、最終的に竹にいきついたが、それだって彼の中に「より長く光を灯し続けられる素材は何か」という問いがなければ、竹でできた扇子を見てもそうした使い方は思い浮かばなかっただろう。(扇子なだけにセンスがある。お約束で!)

だから見る目がある人というのは自分の中により多くの問いを持っていて、アンテナが立っている人のことだといえる。

知識の総量はこの際、あまり関係がないように見える。

知識の総量が多い人は、少ない場合に比べて様々な面で有利だろう。

しかし見る目の有無の問題で言えば、物知りだけど見る目がない人も多くいる。そういう人は自分が集めた知識の中に埋もれているだけで、それを束ねられるような「自分の中の問い」がない。そのためありあまる知識があっても役に立たない。

知識の収集と「問い」はまた別のベクトルなのだ。

どういうことに問いを持ち、どういう深さで、どういう質で問いを持っているかということが、一見ノーマークな物の中に潜む真の価値に焦点を当てる。

だから、見る目があるか無いかというのはまさにその人間性の問題なのだろう。

何に対して問いを持つか、それは哲学だ。

他人が既にいいと評価している何かをそのまま自分の中に流し込んでも自分の見る目は養われない。ただ一緒になって既に良いものを称賛し、それによく似たものを生産するだけだ。それもまたいいだろう。

でもそれでは自分の中の発見がない。ビジネスの場合は大きな利益は望めない。

人が捨ててしまったり、悪いというものの中にも金の鉱石を見つけ出す。そんな所にも「問いに答える何か」が潜んでいるかもしれない。
そのため、もし見る目を育てたいというときは、こう自問するのがいい。

「自分の中には今どんな問いがあるのか?」

もし無いのなら、今こそ作るべき時だ。